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謎の古代津軽王国 :: 2011/02/10(Thu)

「この書は、もし他人に見せることがあれば死罪を招くことあり。
 決して他見してはならず。門外不出をむねとせよ。」


各巻の最初に、この様な世にも恐ろしい注意書きが記されている
『東日流外三郡誌』であります。

昭和50年4月突如として青森県北津軽郡市浦村役場から発刊され、
さまざまな論争を繰り広げられたが、偽書としての烙印を押され
論争はすでに終結したかのようでありますが、

しかし、『津軽古代王国』の真実や埋没神『アラハバキ神』の姿を垣間見るには
禁じられた書を開かねばならないのであります。





この古文書を記したのは、津軽地方の飯詰の住人、和田長三郎と
出羽国(秋田市土崎)の秋田孝季という両名であった。

彼らは、子どもの頃から津軽藩大浦一族によって自分たちの祖先が眠る
津軽の地を奪われ、古くからの由緒正しい系譜を抹殺されてしまったという
話を聞かされてきたのであります。


天正12年(1584年)南部藩出身の大浦為信は、自ら津軽藩祖と名乗って
天正15年に高楯城(五所川原市飯詰)を攻略すると、世にいう津軽藩の圧政が
はじまった。浪岡城北畠氏や高楯城藤原氏の一族残党は徹底的に弾圧され、
それまで津軽地方で最も繁栄していた安東氏一族の家系図・古文献など、
すべて見つけ次第抹殺したという。

そして2代藩主津軽信枚は歴史文献『津軽記』を没収し、
5代藩主津軽信寿は元文5年(1740年)に古代の石器や土器類まで
厳しく微集したといわれている。

いったい、なにゆえに代々の津軽藩主は、津軽地方の古代豪族に強い恐れをなし、
安東一族の家系図まで抹殺をはかったのか?

それは、津軽為信公が南部系出身であったことと、安東一族が古代から
最も崇拝していたアラハバキ神の祟りを恐れからの様であります。

10代藩主津軽信順は、外出のさいにも悪霊退散の高札をかかげ、
津軽地方の民衆弾圧と安東一族に関する神社仏閣の抹殺をはかったのです。



そして寛政年間(1790年頃)、安東氏の後胤にあたる秋田孝季は、
ひそかに和田長三郎と協力し、失われた歴史を求め、2人で
日本全土82ヶ所を34年間にわたって調査したのであります。

彼らは、津軽地方の神社仏閣の古文献をはじめ、縄文時代までさかのぼる
上古代の伝説や伝承記録はもちろん、全国各地に残された神武天皇や
邪馬台国に関する古代記録、および安東氏一族の家系図や歴史記録など
南北朝時代にいたるまでの中世史についての膨大な資料を収集し、
8年の歳月をかけて全360巻に写筆したのであります。


つまり、秋田孝季らは特に津軽地方の正統な歴史的事実を津軽藩に
抹殺される危険性を察知したため、同じ写筆本を2部作成し、
両家がそれぞれ秘蔵することにしたのであります。

そして年月が経ち、昭和32年その秘蔵古文書は、青森県五所川原市飯詰の
和田家で偶然に発見されるのでありました。





『東日流外三郡誌』要約

今から約5000年前、中国の三皇五帝の夏王朝時代
現在の青森県津軽地方(津軽半島の十三湖一帯の市浦村や亀ヶ岡地方
岩木山麓)には、非常にすぐれた古代文化(亀ヶ岡文化)が存在していた。

しかも、縄文時代の岩木山一帯と亀ヶ岡地方には、アソベ族という古代人が
定住していたが、約4000年前に中国大陸から多勢のツボケ族が十三湖に渡来。
アソベ族に文字を伝えたばかりか、青銅器や鉄器の利用法、すぐれた黒陶土器の
製造技術も伝えたという。


アソベ族とツボケ族の混血した民族は、やがて数種類の文字
(古代絵文字や糸の結び目によるキープ文字、砂文字など)を使い、
パンチカード方式による億兆単位の数字計算、日神と月神を中心とする
石神信仰や八生輪廻という霊魂再生観をもっており、天地17神の神々を
祭る『津軽古代王国』を築きあげ、後に強大なアラハバキ王国を設立。


さらに、「魏志倭人伝」に記されている邪馬台国は奈良県の大和地方にあって、
五畿七道(現在の近畿地方や中部・山陽・北陸・近畿地方)を治めた
邪馬台国の支配者は、神武天皇と戦った大和地方に君臨していた大王
長髄彦と安日彦の兄弟であった。

しかし、九州の日向から東征していたという神武天皇に敗れた
長髄彦と安日彦兄弟は、はるか東北にある津軽地方の十三湖に亡命。
この地で新しくアラハバキ王国の王者となったが、彼らが津軽に逃れたのは、
津軽地方を邪馬台国の故郷『邪馬奥』とみなしていたからであった。



そしてアラハバキ王国は、岩手県平泉にいたる広大な陸奥国=奥州一帯に、
東西南北5人の国司者を配置し、強大な国家を形成。
さらに神武天皇以後の天皇後続者や政治問題にまで影響を及ぼすほどの
勢力を持ったという。

しかも、平安時代初期に東北の蝦夷地征服のため進軍した
坂上田村麻呂征夷大将軍と戦い、朝廷軍をことごとく破ったのはアラハバキ族の
子孫にあたる津軽地方の安倍氏(安日彦の末裔)であったというのである。





津軽古代王国とアラハバキ王国の歴史年表

★紀元前(BC)18000年

アジア大陸から北方系のウラル・アルタイ民族が北海道・東北地方に移動。
彼らは岩木山一帯の阿曽部の森に住み着いたことからアソベ族と呼ばれた。
すなわち、原日本人とみなされる。

★BC12000年

古代アソベ族は十和田湖の十和利山に霊山ピラミッドの巨石神殿を築き、
東北各地で巨石メンヒルや石神、岩偶、土偶神像を信仰する。
津軽半島では、日本最古の無文土器が生まれる。

★BC8000年

津軽半島で縄文土器が発生。

★BC3000年

中国大陸からツボケ族が津軽に渡来して、縄文土器文化と漆ぬり土器が栄え、
青銅器が伝わる。

★BC2000年~1000年

アソベ族が各地に環状列石を作る。
アソベ族とツボケ族の混血による亀ヶ岡の縄文文化が繁栄。

★BC700年頃

岩木山麓と亀ヶ岡一帯に古代アソベ王朝が生まれ、最初の王ウソリから
十七代の王朝国家がつづく。

★BC500年頃

津軽の亀ヶ岡から十三湖一帯に、古代ツボケ王朝が発生。
最初の王ダツトリから29代の王朝国家がつづく。

★BC100年頃

中国王朝からの新しい漂着民(周・普の君公子一族)と
アソベ・ツボケ族の混血によってアラハバキ族発生。

★BC18年

十三湖一帯にアラハバキ王国成立。

★AD240年

大和の大王ナガスネヒコと安日彦が十三湖に逃れて、アラハバキ族の王となり、
新アラハバキ王国が生まれる。新アラハバキ五王制による国家組織が発足。
この年から邪馬台城を築きモヤ山ピラミッドを作る。


参考文献「津軽古代王国の謎」佐藤有文 サンケイ出版
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  1. 神社・仏閣
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湯舟神社 鬼伝説 :: 2011/02/04(Fri)

弘前市から西方、西津軽郡鰺ヶ沢町に湯舟神社が高津森山の麓に鎮座します。

記録によれば、寛政年間(1789~1801)に飛竜大権現を祀り、
飛竜宮と呼ばれていた一社であったが、明治の神仏分離のとき飛竜宮を廃し、
高倉神社に改め、祭神を高皇産霊としたのが湯舟神社であります。

江戸中期の寛延年間から、津軽三十三観音の第六番札所となり
本尊聖観音が合祀されて、現在も神仏混合の形態のままであります。

湯舟1
湯舟2
湯舟3


『寛延順礼記』(寛延四年1751)によると
「本尊は達磨の形で石仏である」と記されていますが、石仏と考えられたのは
実は、鉄滓(かなくそ)で高さ1m、周囲1.5mほどのものを主体として
小さな鉄滓2個を積み、仏体に似せているが、これが飛竜大権現の本尊であります。


湯舟という地名が物語るように、このあたりは古代の製鉄遺跡と考えられ、
集落の南側に若山遺跡と呼ばれる所があり、鉄滓(かなくそ)や羽口が出土するのです。


『寛延順礼記』によると

「昔、ここに鬼神太夫という鍛治がおり、刀を打ち悪魔を退治した。
 石と化したので観音堂にお祭りした。石が地面から出現したので
 堂は鞘堂にしてある。ここから奥の方に、刀を鍛えた湯舟の跡がある。」

と述べられています。


『津軽俗説選後々拾遺』(寛政九年(1797)によると

即ち、天文(1532~55)のころ、湯舟に鬼人丸という名高い刀鍛治がいた。
岩木山の赤倉にすむ大蛇が鬼人丸の娘に恋をし、若者に化けて鬼人丸の家に住み込んで
弟子入りをした。二年ほどで鍛刀の術をすべて習得したので、鬼人丸はこの若者に娘をやり
家督を継がせようとした。鬼人丸は若者に、一夜のうちに十腰の刀を鍛えれば娘を
やろうと言った。

そこで若者は鍛冶場にこもり、蛇体を現し懸命に刀を打ち、十腰の刀を鍛えた。
しかし若者の正体を知った鬼人丸は、そのうち一腰を隠してしまった。
夜が明けて、十腰に足らぬことを知った若者は、はじめて鬼人丸に素性を告げて
立ち去った。
そこで鬼人丸は後難を恐れて、大蛇を飛竜権現に祀ったのであるという。



従って、岩木山北麓一帯は、巨大な古代製鉄跡が広がり、
鬼伝説と「たたら」が重なっているのであります。
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鬼神社伝承 :: 2011/02/02(Wed)

大昔、この村に弥十郎という者があった。正直でおとなしい農夫であった。
あるとき、岩木山にタキギ取りに入ったが、山中で見たこともない
恐ろしげな大男に出会った。これが山の大人(鬼神)であった。

弥十郎はその後たびたび大人と出会って親しくなり、角力などをとって
山中で時を過ごしたが、いつも大人は弥十郎の家にタキギをどっさり
運んでくれた。そんなある日、弥十郎は、村に田地を開墾したいと言った。

大人は助勢を約束して帰った。ほどなく手伝いに来た大人のおかげで
たちまち開墾ができあがり、弥十郎は大いに喜んで酒と魚を持って
大人にお礼に行った。

ところで新開の田畑は水の便が悪く、たびたび渇水して村人が困った。
弥十郎はこのことを大人に頼んだ。すると一夜のうちに、谷川の水が
溢れるほど注ぎこんだ。これを見た弥十郎はまた大喜びで、ふたたび
酒や魚を持参して大人をもてなした。しかし、あまりの不思議さに
水源をたずねたところ、岩木山中の赤倉岳の谷間から、大石をくだき
高低をならして水路を開き、灌漑の水を引いてくれたとのことであった。

そこでこの奇瑞に驚き、その沢口を「逆水の沢」と言い、また村の名を
鬼沢と呼ぶことになった。

ところが弥十郎の妻は、大人が田畑の開墾を手伝い、また田に苗の植えつけにも
来てくれたと聞いて疑い、それを確かめようとして、こっそり物かげから
様子をうかがった。大人はこれを知り、弥十郎にこう言って立ち去った。

「お前との交わりもこれまでだが、いままで親しくしたしるしに
開墾に使った蓑と笠と鍬をやろう。」

大人は二度と現れなかったが、これらの品を堂社に納めて鬼神社と称し、
鬼神を祀ることになった。のちに弥十郎も山に入って大人になったともいう。


『弘藩明治一統誌 神社縁起録』より鬼神社の由来




黄金の子牛像を崇拝したヒッタイト系イスラエル10支族(出雲族)の
族長である「スサノオ」は、蓑と笠をかぶって暴風雨とともに現れますが
蓑と笠と鍬は、まさにスサノオの象徴であります。


鬼神を祀るこの村には、昔から節分にも豆まきをせず、端午の節句に軒に
菖蒲を挿さないのでありますが、
そもそも節分は、神社神道を確立した秦氏の行事であり、
平安時代から行なわれている追儺という宮中の鬼払いの儀式に原型が見られます。
  1. 神社・仏閣
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津軽の『三四五の封印』Ⅲ :: 2011/01/31(Mon)

日本の丑寅の方角、そして岩木山の丑寅の方角である
大石神社の岩座の封印が解かれたことで、
津軽の『三四五の封印』は解除されたのです。


風水で丑寅の方角は、鬼門といわれますが

鬼のスタイルを思い浮かべると
頭に角を生やし、虎の毛皮のパンツを履いていますが
それが丑寅といわれる所以であります。


岩木山より約10キロ北上すると鬼伝説が伝わる鬼沢という地名があり、
そして鬼を祀る鬼神社、通称おにがみさまの神社が残ります。


地元の伝承では、「巖鬼山(岩木山)」に棲む鬼が水の涸れた田に水を引き、
それ以来この地は土壌が豊かになったとの伝承が残っていますが
村人が「鬼」に感謝するため鬼神社を建て、鬼の使用していた鍬等を祀ったとの
言い伝えがあります。

oni1

oni2

oni3

oni4


鬼神社(おにがみさま)旧郷社
弘前市鬼沢字菖蒲沢 奥羽本線弘前駅より三粁
祭神 高照姫神 伊奘那岐大神 大山祇神
例祭 旧五月二十九日 神紋 まんじ巴 本殿 流造 境内 四四二坪
末社一社 宝物 鉄製の鍬形(千年前の作)鶏遊戯の図帖
氏子 二百五十三戸 崇敬者 五万人
神事と芸能 七日堂舞祀(旧正月二十九日その年の五穀豊穣を祈る)
裸祭り(旧正月一日氏子青年団裸にて〆縄奉納)

由緒沿革 延暦年中坂上田村麿東夷征討の勅命を奉じ東国に下った時、
岩木山頂奥宮鎮座顕国魂の女高照比売命の霊験を蒙るに因り
岩木山麓に社宇を再建したという。其後大山祇命を配祀すと云う。

明治十四年郷社に列せられた。



鬼とは、伝説上の妖怪魑魅魍魎の類ではなく
権力者側の視点からの
制圧された神々や民「まつろわぬ者」のことでありますが、
『鉄鉱民』でもあります。


鬼伝説のある地域には、黄金いわゆる「マガネ」鉄のように
鉄鋼等の資源が見え隠れし、
そして坂上田村麻呂や慈覚、空海等の神社仏閣霊場創建伝説が
重なっているのは、蝦夷の制圧とともに、その地方の鉱物資源が
が狙いでもあります。


現に、鬼沢近くの岩木山北麓の大森勝山遺跡には、
環状列石が見られると同時に

山麓全般に製鉄跡の『たたら』の痕跡が残るのであります。




鉄鉱民のルーツと言えば、世界最古の製鉄民「ヒッタイト人」であり
『旧約聖書』では「ヘテ人」という名称で登場しますが、
カナンで神と契約を結んだ民であります。

トルコのエルズルムとは、かつてヒッタイト帝国が栄えた地ですが
『霊界物語』によると、国常立尊はエルズルムから世界の東北に
追いやられて日本列島が形成され

この出来事が人間界に移写したのがヒッタイト系イスラエル10支族の日本渡来であり、
更にこの東北地方に追いやられているようなのです。

黄金の子牛像を崇拝したヒッタイト系イスラエル10支族(出雲族)の族長は、
「スサノオ」と呼ばれる。


魔法陣では、丑寅の方角は「八」という数字が当てられていますが、
出雲族を象徴する数字は、「八」であり、ヒッタイトを原音で読むとまさにハッティとなります。


岩木山では、お山参詣で参拝者が頂上に近づくと

「来たじゃー、八、来たじゃー
 今、来たじゃー」

と叫ぶのが慣わしですが、

一般的には、「八」とは八大金剛童子のことではないかと考えられていますが、
実は、お岩木山に幽閉封印されている出雲系神のことだと睨んでいます。


丑寅の方角から黄泉帰る鬼は、祟り神として恐れられる「艮の金神」として、
地震、雷、暴風雨と共に復活するのでございます。


津軽の『三四五の封印』を2週間ほどフラクタルしているが
あいかわらず大雪で申しわけないのでございます。


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津軽の『三四五の封印』Ⅱ :: 2011/01/24(Mon)

東北において封印を探ると坂上田村麻呂の名が何度も繰り返されますが、
そもそも田村麻呂は、歴史の上では志波城を築いただけで、青森まで来ておらず
青森県の蝦夷を平定したのは文室綿麻呂であります。


田村麻呂の伝説が各地に残るのは、
『古事記』『日本書紀』を編纂した藤原不比等によるものであり
歴史改変の事業の為、真の歴史を闇に葬った張本人であります。
(その不比等のバックには○○○が)

そして、不比等の命令で動いた実行部隊である山伏どもが
実際に各地で、坂上田村麻呂や慈覚、空海等の神社仏閣霊場創建伝説を作り上げ、
全国の主要なエネルギースポットを呪術で封印したのであります。

それは徹底したもので、明治の初め、神仏分離の時まで続けられていたことが
分かっています。


従って、本来の祀られていた神を封じ込め、その上に渡来系の神仏を祀り
真の歴史を知らされていない我々が、ご利益を求めパワースポット巡りなどして
自らの思考エネルギーで埋没神をさらに封じ込めているのが現状であります。

これこそ、カッバーラの極意であり、おそるべし不比等なのであります。



さて、津軽の『三四五の封印』の続きを解明しよう。

全国に仕掛けられている『三四五の封印』は、『三』と『五』の地名を頼りに
『四』の場所を特定し、

「日向の直角三角形の封印において4の辺上に9つのポイントがある。
うち一ヶ所で日向は封印をしており、残り8ヶ所は偽物のポイントである」


通常の『三四五の封印』は、この一箇所の封印を解除すればよろしいのですが、
ここ津軽だけは別格です。


異なる年代において天台密教最強の防御術・北斗供
いわゆる北斗七星の封印を後から施しています。


「荒俣宏 歌枕謎解きの旅」より

 熊野奥照神社の社殿によれば、津軽地方は王城の鬼門にあたることにより、
古くから鬼神の蜂起が発生して庶民をおびやかすことがあったという。
そこで津軽の阿姿羅というところに千坊の寺を建てて鬼神を平定し、
国土擁護秘法を修した。ところが鬼神の横行は一向にやまなかった。

そこで桓武天皇の時代に、田村麻呂が名を受けて官民五万八千とともに
ぴ集を攻めた。このとき、田村麻呂は閉廷した津軽に七つの社を建て、
そこに武器を遺棄して、あたかも田村麻呂将軍がこの地に常駐するかのごとくに
見せかけることにした。

田村麻呂はその際、七社を北斗七星の形に配し、星の威光を借りて鬼神を封じたという。
明治九年頃に岸俊武の「新撰陸奥国誌」に熊野奥照神社古文書から引用された
図が掲載された。それは岩木山を中心とする十二里四方の範囲に点在する
七つの神社の配置図であった。しかもその配置が北斗七星の形をなしていた。





この津軽は、日本列島の丑の方角であり、鬼門でありますが、
この鬼門に国常立命=大己貴命を幽閉し、そして厳重に封印し、
同時に祀りあげることで、
本州の北門の守りを固めたのであります。


その場所は、本州最北端の北の鎮守の霊峰岩木山
国常立命=大己貴命を幽閉したのであります。


天台密教最強の防御術・北斗供の一つにも岩木山神社が加えられ
いわば、二重の封印が施されているわけですが

あるポイントに気づき浄化しなければ、岩木山神社が開かないようになっています。



岩木山神社の元宮ともいわれる巌鬼山神社と呼ばれる神社が
弘前市十腰内にあります。

巌鬼山神社


 
当神社は、桓武天皇の御世延暦15年の草創なり、
大同2年征夷大将軍坂上田村麿公奥羽平定の時、霊験を蒙り当社を再建せり、
爾来岩木山上の社殿を奥宮、当神社の下居宮と称せり、
堀河天皇の御世寛治5年当神社より壱百の渓谷を越えて社殿を建立せしは、
今の百沢岩木山神社にして壱百の沢を越えたるを以て百沢と称せり。

 伝云、往時岩木山三所大権現(岩木山・厳鬼山・鳥海山)と称せられたりと、
厳鬼山には西方寺観音院を置き寺禄百石を賜る、
当社殿は慶長2年旧藩主津軽為信公改築せられるを、元禄2年、安政元年、
明治28年、大正10年の修繕を経て今日に至る。

-『平成祭データ』-



十腰の下居宮(現厳鬼山神社)が百沢(現岩木山神社)に遷座されていますが、

岩木山神社から北に約5キロの地点に大石神社と呼ばれる石がご神体の神社があります。

大石ライン


大石神社


大石神社の由来

 往古桓武天皇の延暦19年征夷大将軍坂上田村麿東夷勘定の時、
当山の霊験を蒙りしにより、十腰内に下居宮を建立、当時当社は
岩木山登拝口にして、巨石大余の者三四併立神体石にて、
工人群集登山の安全を祈願せり。

 堀河天皇の寛治5年十腰内の下居宮は壱百の渓潤を越せる土地、
即ち百沢に遷され跡地の社堂は岩木山三所大権現の内一社
厳鬼山御西方寺観音院として、俸禄百石を検行し巨石大石明神の信仰弥高まりたり。

-『平成祭データ』



岩木山神社と巌鬼山神社と大石神社は、東経140度20分ライン上であり
ここは神社や古代遺跡が立ち並ぶレイラインです。

140度20分レイライン


大石神社の社伝によると

十腰の下居宮(現厳鬼山神社)が百沢(現岩木山神社)に
遷座した後、大石信仰が高まっていますが、
大石神社のご神体である石に言霊による呪術を施したようであります。

石は、情報を蓄積できる非常に高度なハードディスクなのです。



従って、津軽の『三四五の封印』は、大石神社を浄化することで、
解けるのでありますが・・・
  1. 神社・仏閣
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