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『戸』の謎を追え! :: 2010/12/31(Fri)

非常にローカルな話でありますが、青森時空研のセミナー会場となる六戸町のように、
この周辺、岩手県北部から青森県南部地方のいわゆる南部藩領域内には、
一戸から九戸までの

一戸 二戸 三戸 五戸 六戸 七戸 八戸 九戸

四戸は、現在地図上に存在しませんが、五戸町に合併した旧浅水という土地が
四戸ではないかといわれています。


aomori


この一戸から九戸までの地名は、その土地の人達によって自然につけられたものでは
なくて、だれかこの地方全体を支配していた者が、計画的につけた地名であったの
だろうといわれています。それではいったいその支配者というのは、いつごろの
どういう人であったのでしょうか。

昔から東北の北部は有名な馬産地でした。だから鎌倉幕府がはじめてできたころ、
この地方に下って来た南部の殿様(初代光行)が九つの牧場をつくって、
それを順序に一戸から九戸とよんだのだろうという説もあります。

また各戸のつく地名が、昔のだいたい一日行程、四里(十六キロ)か五里(二十キロ)
おきになっているので、宿駅(宿場)の名であったのだろうという説もあります。

だがこの九ヶの戸の地名由来について、最近新しい説がとなえられています。
それはこの文室綿麻呂説です。文室綿麻呂説は、爾薩体と幣伊の蝦夷を平定するために
四道に分かれて北上しました。

爾薩体を目標にした中央軍と、出羽軍はおそらく二戸市あたりでいっしょになって、
馬渕川沿いに陸羽街道を北上したのでしょう。また幣伊を攻撃した別軍は、葛巻町
あたりから二つに分かれて、新井田川や海岸通りを通って、八戸に向かって進んだ
のではないでしょうか。その新井田川のほとりには九戸村があります。


そして記録にもあるように、最後の総攻撃は都母村で行なわれました。
一戸から七戸までの地名は、ちょうどその中央軍が進んだ路線に沿って点在しています。
綿麻呂は蝦夷を攻めるために、南から北へ兵站部(食料や武器をたくわえておく基地)を
つくりながら進んだに違いありません。

奈良時代には蝦夷地を占領すると、そこに城柵を築いて農民を移住させ、その地方を
開拓させました。その農民を柵戸とよんでいます。そのこのはだいたい人が住んでいる
部落か、村のことを戸とよんでいました。
作戦計画をたてるときに、その攻撃目標となった基地を、あるいは順序に一戸から
七戸、また八戸・九戸とよんだのかもしれません。

『物語 南部の歴史』
P261~262までより引用


これが『戸』のだいたいの通説でありますが、時空研はそこで終わらない。


古村先生は、セミナー中に懇親会の最中、一戸から九戸、十和田を含め
この一帯には、『失われたイスラエル十支族』が来ている証拠だと、
おっしゃっていることを聞き逃してはいけない。


来年に続く


今年もセミナー参加者の皆様、ブログ読者の皆様
多くの皆様のお陰で無事に年末を迎えることができました。
ありがとうございます。
来年もどうぞよろしくお願い申し上げます。


それでは、よいお年を!
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